空の小瓶に愛を落とす 


 高校三年。大学受験の年。必要ないと言ったにも関わらず半ば強引に家庭教師を雇った両親に最初は辟易としていた。志望校も既に模試でA判定を取っているし落ちる気は毛頭ない。慢心でもなんでもなくそれだけの努力を重ねてきていると自負していたからだ。家庭教師など雇わなくても自分のペースでやっていけるし、何より見知らぬ人間をいきなり自室というプライベート空間に入れるのに抵抗があった。
 それでも嫌な気持ちを押し殺し受け入れたのは両親がおれの将来を慮った故の提案だと分かっていたから。受験まで一年を切っているし、たった一年未満、週二回の二時間我慢すればいいだけのこと。
 そう、思っていた。

「ローくんまたオールA判定? 凄いねぇ……。私教えることほとんどないんじゃない?」
「そんなことねェ。なまえさんが教えてくれてるからだ」

 おれの家庭教師としてやってきたなまえにおれはあろうことか一目惚れしたのだ。よろしくねと笑うなまえにガツンと頭を殴られた感覚がして目が逸らせなくなった。たった週二回、二時間。この短い時間でどう落とすか逡巡し、遠回りしている時間はないだろうと判断したおれは積極的にアプローチをかけているが今のところなまえがおれに落ちる気配はない。
 好きだという態度は隠さないまま、家庭教師を辞められては元も子もないのでなまえがいるからより勉強が身に入るのだと態度で示し、年上であるなまえを尊重するようにさん付けに敬語と良い生徒を演じた。敬語に関してはつい砕けた口調になることも多かったせいで見かねたなまえからタメ口でいいよと言われてしまい、早々に崩したが。それを差し引いてもまさかなまえが帰った後なまえで抜くこともあるとは思わないだろうというくらいには真面目な生徒という印象を植え付けられているはずだ。
 だがなまえは靡かない。家庭教師という体面も気にしているのかもしれないがどうやら年下そのものに興味がないらしい。おれから言わせれば年下だの年上だのくだらねェ話だが。

「うん、ここの範囲も問題ないし、今日はこれで終わりかな。お疲れ様」
「なァ、今回おれ結構頑張ったんだけど」
「え? そうだね。ほんとに凄いと思う」
「褒美くらいくれてもいいんじゃねェの」

 頬杖をつき、真っ直ぐなまえを射抜く。椅子を半回転させ片膝同士をくっつけるとなまえが座り直すことでさりげなく距離を取った。

「ええと……。あ、今日食べようと思ってたお菓子ならあるけど。食べる?」
「おれが菓子なんか食うように見えるか」
「見え、ない……」

 半年以上かけてアプローチしたおかげでおれの好みは無事把握してきているようだ。当然、おれが本当に欲しているものも分かっているはず。今おれから距離を取ったのもいい証拠だ。

「たまには気分転換にどこか出かけるのもいいと思わねェか」
「出かけるったってローくん受験生でしょ。勉強しなきゃ」
「勉強の必要があんのは今の段階でA判定取れてない奴だろ」
「油断大敵って言葉知ってる?」
「たった一日出かけるだけだろ」

 互いに譲る気のない攻防はいつもの事。変に真面目ななまえは勉強以外の時間をおれと過ごす気はないという意志を頑として崩さなかった。姿勢を正し「一応教師と生徒なんだし、そういうの良くないと思う」とテキストの背を整えながら返すなまえに食い下がるが残念なことに結果は目に見えている。
 
「学校の教師と生徒ってわけじゃねェんだ。誰も気にしねェよ」
「親御さんがなんて言うか」
「……はァ、分かった。だったらせめて、連絡先教えてくれ」
「駄目。純粋に授業の質問するだけって訳じゃないでしょ」
「…………」

 好意を隠さずにいることはともかく、これだけは悪手だったと言わざるを得ない。好意を伝える前に連絡先を押さえておくべきだった。不要な警戒心を持たれてしまったと後悔しているのは言うまでもない。

「じゃあ、また明後日ね」

 それに返事をしないのはガキの証拠だ。頭では分かっている。だがいつまでも暖簾に腕押し状態で一向に振り向く気配がないのだからある程度は致し方ないだろう。どこまでも家庭教師と生徒という関係を崩そうとしないなまえがどうすればその気になってくれるのか。答えの出ないその問いに比べれば大学入試など容易く思えた。


 ◆

 
 目下の悩み事と言えば家庭教師として出会ったローくんのことだ。どういうわけか恋愛という意味での好意を持たれてしまい、ことある事にアプローチを受けている。言っちゃ悪いけど年下は完全に対象外だ。まして相手は高校生。たった二個違いとはいえ、高校生は大学生にとって実年齢よりずっと年下に見えてしまう。それに加え生徒と教師と言う関係も手伝って私はローくんをどうしても恋愛対象として見れずにいた。
 そりゃあこんなにも真っ直ぐ好意を伝えられたら多少ぐらつきもするけど最後には必ず"年下"というのが引っかかる。今まで周りの人にも年上の方が合ってると言われてきたし、自分でもそう思う。甘えるのが苦手な私を包み込んでくれそうな年上の男の人がどうしたって魅力的に映るのは致し方ないだろう。どう自分の考えを捏ねくり回してもローくんに甘えるビジョンがみえない。
 確かにローくんは高校生にしては大人びてるところもあると思う。私の知らない知識を沢山持っているのだろうなというのも感じている。けれどそれはそれ、これはこれだ。いくら大人っぽくても年下に変わりない。
 ローくんに出した宿題の採点をしながら感嘆の息を漏らす。相変わらずローくんの回答は完璧だ。受験生の自覚ある? と聞きたくなるくらいデートに誘ってきたりするし、受験生でしょ、といなしても飄々としている彼だがやはり努力もしているのだろう。
 ローくんの受験まで後半月。ローくんの家庭教師も残り五回を切った。ローくんが受ける大学の医学部受験は二月後半に行われる。もういよいよラストスパートなのだ。
 残りの授業日を確認すべく手元のカレンダーを捲るとローくんの最後の授業日はバレンタインだった。他の生徒にチョコレートを強請られたのを思い出す。ローくんからは特に欲しいだとかは言われていないけれど多分欲しがる気がする。というよりこれまでのローくんを見ているとあげないと無言で訴えてきそうだ。もう会うのはこれが最後なんだしローくんにもあげてもいいかなという自分とこれで受験の集中が乱れたらどうしようという自分が真っ向から対立する。さて、どうしようかなとコップに残ったココアを飲み干した。

 


 
「連絡先教えてくれねェなら受験は蹴る」
 
 じゃあ授業を始めよっかとテキストを開いた矢先の発言にこのクソガキ、と内心口が悪くなってしまうのもある程度致し方ないと思う。椅子にふんぞり返りどうする? と意地悪く笑うローくんに頭が痛くなった。それで将来困るのはローくんだ。
 実力が及ばなかったとかではなく、ローくんならほぼ確実に合格出来るのに私の返答ひとつで棒に振るだなんて有り得ない。これはただの脅しだ。そう思うのに万が一を考えてしまい動けなくなった。
 一応用意だけしておいて様子を見るか、と結論付け鞄に忍ばせておいたチョコもテキストを出したタイミングで目敏いローくんに見つかってしまい早々に取り上げられたから交渉材料としては使えない。
 奪ったチョコを齧りながら早く返答しねェと勉強時間が減ると訴えるローくんに頭を抱えた。だったら大人しく引き下がれというのは通用しないのだろう。勉強に関しては真面目な生徒だったはずのローくん像がガラガラと音を立てて崩れていく。
 今日が家庭教師としての最後なのだ。今まで通りあっさり終わるわけがなかったのに。こればっかりはこの事態を想定して対策を練らなかった私の落ち度だ。

「……はぁ、分かった。教える。その代わり受験が終わるまで連絡してこないこと。後今日は私語厳禁!」

 ビシッと指をさし言い切ると流石のローくんもこれ以上文句を言うつもりはないのかあっさり頷いた。友達欄に追加されたトラファルガー・ローの文字にしてやられた感が重くのしかかる。元生徒の連絡先を知ってることはおかしなことじゃないと言い聞かせないとやってられない。

「ブロックすんなよ」
「しないから。ほら集中して」

 最後の最後まで手を焼く生徒だ。連絡先を交換してからはちゃんと勉強に集中してくれたからそこは良かったけど。

「よし、とにかくやれることはやったし、後は受験本番に向けて勉強だけじゃなくちゃんとご飯食べて睡眠も取って頑張ってね」
「あァ」

 帰り支度を済ませて玄関まで降りるとローくんのお母さんが「今までありがとうございました」とお菓子をくれた。素直にお礼を述べて受け取ると、ふんわりとした笑みが返ってきて照れくさくなる。医者をしているとかで滅多に会うことはなかったが、ローくんから私の話はよく聞いていたらしい。ローくんがいるからか、子供が内緒話をするようにこっそり耳打ちでローくんから聞いた話をする様子は私よりずっと年上の女性への表現として正しいかはさておき、可愛らしいお母さんに見える。ローくんの時々見せる素直さはお母さん譲りなのかもしれない。
 ローくんのお母さんと話終えるのを待っていたローくんが珍しく駅まで送ると言ってくれたのを承諾し、すっかり暗くなった道を連れ立って歩く。最後だし改めて告白でもされるのかしらと身構えたけれど、想像に反して他愛のない話をしている間に駅に着いた。
 駅の煌々とした灯りと人集りに、もう当たり前にこの道を歩いてこの改札を通ることはないのだとしみじみとした気分になってくる。ほんの少しの寂しさを感じて後ろを振り返り、歩き慣れた歩道を眺めた。
 センチメンタルな気分になっている私に構わずローくんは普段通りの態度で「受験終わったら出かけるぞ」と念押しした。再三ちゃんと勉強してるんだから一日くらい平気だと言っていたのに受験を目前にすると気の持ちようも変わったのか受験後に、と言うローくんに年相応に緊張でもする所もあるのかと頬が緩む。ここで否定する気にもなれなくて「合格したらね」と手を振った。
 
 そんな別れ際だったからてっきり受験が終わったらすぐに連絡がくるのかと思いきやローくんからの連絡は全くなかった。私からするのも変な気がしてそのままにしてあるがあんなにアプローチしてきたくせにと拍子抜けもいいとこだ。せめて合格したかどうかくらい報告しに来いと思うのは勝手だろうか。
 ここ数日ソワソワと落ち着かず家の掃除ばかりしているせいで随分と綺麗になった部屋を見渡す。今日は大学も家庭教師も休みだ。映画やドラマを観るにしてもどうせ集中出来やしないしいっそ昼寝でもしようか、とコードレスの掃除機片手に考え込んでいるとポケットに入れていた携帯が震えた。こんな真昼間に誰だと携帯を手に取る。ディスプレイに表示されているのはトラファルガー・ローの文字で、タイミングがタイミングなだけに心臓が大きな音を立てた。
 いざ連絡が来るとどうにも全身が強ばってしまい、ゆっくりと掃除機を壁に立てかける。コール音が切れる前に、と意を決して通話ボタンを押した。一言も漏らすまいと息を飲んで耳をすませる。ローくんが話し出すまでの時間がとてつもなく長く感じて、緊張と共に息を吸い込んだ。

「……合格した」

 淡々と述べられた報告に安堵の息を吐く。腰が抜けその場にへたり込んだ。

「すごいよ……! おめでとうローくん!! ほんとにおめでとう!!」

 頑張ったのはローくんだけどなんだか私まで報われた気分だ。ありったけの気持ちを込めておめでとうと繰り返す。電話の向こうでローくんが笑った。

「なァ、今日会えねェか」
「会う、たって」
「合格祝いくらい連れてってくれてもバチは当たらねェだろ」

 相変わらず小憎たらしい言い回しだ。たった一ヶ月ぶりなのに随分懐かしく感じる。きっと電話の向こうではいつも通りのまるで高校生とは思えない余裕の笑みを浮かべているのだろう。その笑みを崩してやるのも面白そうだと肯首した。

「うん……。そうだね、いいよ。行こっか」
「決まりだな。迎えに行く、今家か?」

 ずっと拒否を続けていた私が頷いたのだからもう少し驚いた反応を見せてくれてもいいのに。まるで必然のように言うから毒気を抜かれてしまう。なんだ。

「家知らないでしょ。いいよ、ローくんの最寄り駅まで行くから」

 流石に家を教える勇気はまだなくて、ローくんが何か言う前に終話ボタンを押した。
 元生徒と会うにしては浮かれた足取りで身支度を整え、一ヶ月ぶりにローくんの最寄り駅に降り立つ。既に着ていたローくんが壁に寄りかかり時計と睨めっこしていた。

「合格おめでとう」
「電話で散々聞いた」
「何度だって言いたいの」

 そうかよ、と目尻を緩めるローくんにどこ行く? と尋ねた。

「あァ、そうだな。だがその前に……やるよ」
「これ、って」
「ホワイトデーだろ」

 手渡されたのは丸い透明のガラスの小瓶に詰められたキャンディだった。ローくんらしからぬチョイスに相好を崩す。もっとシンプルでモダンな物を選ぶイメージだった。素直にお礼を口にすると「バレンタインにチョコくれたから最後だし付き合う気になったのかと思えば連絡先ひとつ教えるのも渋るしどうなってんだ」とぶつくさ文句を垂れるローくんにどれだけ自信家なんだと思わず吹き出した。

「おれも、半月後にはなまえさんと同じ大学生だ」
「うん」
「もう教師と生徒でもねェ」
「……そうだね」
「年下だとか年上だとかくだらねェ。そろそろおれを同じ舞台に立たせろ。話はそれからだ」

 手に持った小瓶が熱を持つ。ローくんから目が逸らせない。二人の間に桜の花びらが舞って落ちた。
 付き合うなら年上がいい。もっと欲を言うなら三つか四つ年上で、甘えベタな私をうんと甘やかして包み込んでくれるような人。
 でも、少しくらいは。ひたすらに好意を向けてくれるローくんに免じて意識を向けてみてもいいのかもしれない。


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